教えるとは何か?教えない技術とは?

「教えたのに、伝わらない」──これは、どの教師も一度は味わう痛みだ。
かつての私もそうだった。丁寧に説明して、資料もつくって、相手の目も見ていたはず。
それなのに返ってきたのは「で、つまりどういうことですか?」という無慈悲な一言。

いや、伝わってないじゃん。

 

でも、もっとショックだったのは、「教えた」という達成感を持っていたのが自分だけだったこと。
相手の思考が止まっていたことに、気づいていなかった。

正直に言えば、「教えること」が自分の安心材料になっていたのだ。
説明=仕事した感。
わかったように話す=プロっぽさ。
でも中身は、相手が自分で考える余白を潰す「優しすぎる暴力」だったのかもしれない。

 

「教えない技術」というと、かっこよく聞こえるが、現実はそんな華やかなものじゃない。
それは、ただの「沈黙に耐える技術」である。

黙って待つ。
目の前で生徒が迷っている。言葉が出ない。わかってない顔。
それでも待つ。
心の中で「ちょっと、誰か答えてくれ」と叫びつつ、口を閉じて待つ。
(ヨガの修行みたいだ)

 

教えすぎは、生徒の伸び代を奪うことがある。
答えを言えばその場はスムーズ。でも、そこに「考えた痕跡」は残らない。

じゃあ、なぜ先生たちはすぐに教えたがるのか?
それはね、「教えないと仕事をしてないように見える」から。
「説明できる=優秀」だと信じてるから。
そして何より、沈黙が怖いから。

かつての私もそうだった。
講師として沈黙が続くと、「説明が下手だと思われるんじゃないか」と不安になった。
だから先回りして教えてしまう。
でも、それでは生徒の中に「自分の言葉」が育たない。

 

本当に大事なのは、生徒が自分の言葉を持つこと。
そのプロセスを待てるかどうか。
これは、教えるよりずっと難しい。

でも、それを乗り越えて「自分で答えを出した」瞬間の生徒の表情は、何ものにも代えがたい。
その一瞬を信じて待てるかどうか。
そこに、本当の「教えない技術」がある。

 

まとめ

  • 「教えた感」は自分の安心であって、相手の理解とは別問題
  • 教えない技術とは、黙って待つ勇気である(修行です)
  • 生徒が考える時間=成長の時間
  • 沈黙が怖いなら、それは先生自身が不安な証拠
  • 引き出すことは、教えることより深い信頼

執筆:鹿内節子